2017年3月25日土曜日

モーツァルト ピアノ協奏曲第27番_カーゾン&ブリテン

今日の一枚は、モーツァルト「ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K.595」。クリフ・カーゾン(P)、ブリテン(C)イギリス室内管弦楽団<1970年録音>。
27番(最後のピアノコンチェルト)は、モーツァルトがなくなる1年前(1791年)の作品で、モーツァルトがコンサートピアニストとして最後に演奏した曲です。その純粋な美しさは、清濁すべてを包み込む暖かさと優しさに溢れている。しかしそればかりでなく、永遠の旅立ちに向けての「悲しさ」「虚ろさ」を内包し、だがそこにある安らぎと、新しい世界へ向かうモーツァルトのワクワク感をも織り交ぜ、まるで一片の雲もない青空のような曲であろう。
そしてこの曲は、何の気張りも飾りもなく、まるで聴かせるため作品ではなく、一つのモノローグの雰囲気をもつ。そのため編成は、フルート1、オーボエ2、ファゴット2、ホルン2、弦五部と極めて小編成となっており、ピアノのモノローグをオーケストラが支えるといった形式なのだ。
第1楽章、面白いことに交響曲第40番でも見られる1小節のみの低弦の伴奏から始まる。そして第一主題、ヴァイオリンの美しいメロディは、優しく天上へ舞い上がったかと思うと突如自分の胸元へと舞い降りてくる。管弦楽で繰り広げられるこの第一主題は、時折短調へと移ろい何気なく長調へ復帰するが、この二面性がモーツァルトがもつ心の襞を表現している。ピアノが始まると、同じメロディが少し「悲しみ」を中に含んで聴こえる。転がりゆく鍵盤に見る愛らしさと憂いの行き来。展開部でも、短・長を目まぐるしく行き来しながら、その底流にある「悲しみ」は一貫されている。
そしてピアノは、カデンツァにおいて、そのもどかしさを表現する。
第2楽章(変ホ長調)、天才モーツァルトの緩徐楽章の集大成とも言うべき至純の世界観。このピアノのメロディは、まさしく「向こうの世界」から我々の世界へ響いてくる音です。聴くものすべてを安らぎと暖かさに包み込んでくれる。ピアノと弦楽、管楽が一体となり創り出される至福のひと時。その中にあって少しデモーニッシュな74小節目の第1ヴァイオリンとそれを受け継ぐフルートの下降ラインなどは何度聴いても、ぞくぞくします。(下の楽譜の部分)
第3楽章、冒頭は作品番号としては1つ後ろですが「春の憧れ」K.596の一節を用いたといわれる第1主題です。この動機はカデンツァでも使われています。でもこのパッセージは、「コシ・ファン・トゥッテ」第2幕、ドラベッラが歌うアリア「恋はかわいい泥棒」にもよく似ています。姉の恋をそそのかす曲と清純に春を思う童心のような心の表現を同じモチーフとして用いている。そして、この至純のピアノコンチェルトにも加えている。このあたりがモーツァルトのお茶目なところかもしれません。
ここでは、変ロ長調へ戻っていますが、モーツァルト独特の「慰めなき長調」と私が勝手に呼んでいるロンドです。長調でありながらどこか憂いを含んだメロディです。
カーゾン、ブリテン盤は、27番の最高峰の一つあろうかと思います。珠玉とは、このカーゾンのピアノタッチのことを言う言葉であるかのような演奏。さすがのブリテン、カーゾンの微妙な心の動きをも見事に支え切っています。
是非、お勧めしたい一枚です。長くなりました。最後まで読んでいただきありがとうございます。






2017年3月11日土曜日

ドイツ・レクイエム 21

3月11日:日本人の「ドイツ・レクイエム」ファン(ヲタ?)としては、キリスト教徒ではなくても、今日という日は、やはりこれを聴かざるを得ないでしょう。
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月に1度は聴きたくなるブラームス「ドイツ・レクイエム」シリーズ。第21回目となります。
①クレンペラー②サバリッシュ③ヤルヴィ④ジュリーニ➄セル⑥コルボ⑦アーノンクール⑧ケーゲル⑨ロバート・ショウ⑩アクサンチュス⑪コッホ⑫ヘレヴェッヘ⑬シノーポリ⑭クーベリック⑮バレンボイム⑯レヴァイン⑰ケンペ⑱マゼール⑲アンセルメ⑳クレツキ
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第21回目は、シューリヒト:シュトゥットガルト放送交響楽団、シュトゥットガルト放送声楽アンサンブル、フランクフルト放送合唱団、マリア・シュターダー(S)、ヘルマン・プライ(Br)<1959年録音>。最初に申し上げておきますが、録音はかなり残念です。
シューリヒトには、北ドイツ響、フランス国立管弦楽団との録音もありますが、今日はシュトゥットガルト放送響との演奏で。
さて、シューリヒトのドイツ・レクイエムは、「朗々として清廉」という言葉が似あうのではないでしょうか。
ヘルマン・プライには、他盤で見られるようなモノローグ的でなく、実に力強く生気に満ちた声で歌わせています。そのため第3曲は、フーガまでの緊迫感の中に重苦しさはなく「希望」へのつながりがはっきりしています。
第4曲、Selig動機の変奏であるこの曲は、実にテンポを大きく揺らしています。ここにシューリヒトの慈愛の深さを感じます。
第5曲、マリア・シュターダーは流石です。高音で割れてしまう当該録音ですが、シュターダーの美しい声だけは、さすが天上からの声とも言うべきか、全く影響もなく清らかで柔らかい歌声が響き渡ります。そしてここでも、シューリヒトは、悲しみの母というよりも、強い母と天のイメージでシュターダーに歌わせているようです。他盤に比べて実に力強さを感じます。
第6曲、シューリヒトのきびきび感と1音1音の切れ味の良さが光ります。力むことなく自然体でスフォルツァンドまで持って行き、淡々と大フーガへつながっていきます。力強さを持ちつつ優雅に華麗に歌われる賛歌です。
こちらも、お勧めの一枚となります。



2017年3月5日日曜日

モーツァルト ピアノ協奏曲第18番_ハイドシェック



ハイドシェックのモーツァルト ピアノ協奏曲集から、第18番 変ロ長調 K.456を聴こう。
ハンス・グラーフ指揮 ザルツブルグ・モーツァルテウム管弦楽団。(1994年録音)
20番台の1960年代ヴァンデルノート盤ではなく、円熟のハイドシェックの演奏である。この曲は、ウィーンの盲目のピアニスト、マリア・テレージア・フォン・パラディス(25才)のために作曲されたものである。ハイドシェック盤には、きちんと「パラデュース」の名が記載されている。
実は、彼女は同時期のモーツァルトのライバル宮廷音楽家レオポルド・コジェルフ(ボヘミア出身)の弟子だというから、アマデウスも無頓着にも程がある。
この如何にも胡散臭そうな名前のコジェルフ、実はサリエリよりも多く、モーツァルトの2倍の俸給を得ていたらしく、モーツァルトの死後に宮廷音楽家の地位に就いたのである。出版者でもあったがベートーヴェンなどは酷評しているようだ。
全く横道にそれてしまいました。
まず、18番第1楽章は、まさに春の暖かなウィーンの街を闊歩したくなるような旋律で始まります。(行ったこともないが)
ハイドシェックの音質は歳を重ねてもキラキラしています。そして、一音一音の切れ味にその才能を感じます。
この第1楽章は、単に快活なだけでなくモーツァルトお得意のちょっと沈みがちの翳りの短調部分が含まれており、ハイドシェックのピアノは自在と言える巧さでその濃淡を弾きわけています。カデンツァは、極めて打ち込み風の流れるような旋律。でもここでホール中が息をのむ風景が浮かんできそうです。
次に第2楽章ですが、これが白眉です。変ロ長調の平行調であるト短調。そうモーツァルト宿命の調性で書かれています。
冒頭の弦楽群で始まる、悲しいメロディーは耳にこびりついて離れません。そしてピアノが同じ旋律を8分音符で叩き始めた瞬間にモーツァルトの世界に引き込まれてしまう。如何にも単純なメロディーでありながら、複雑な半音階が現れるごとに不思議な雰囲気に陥る。これは「フィガロの結婚」でバルバリーナが歌う「カヴァティーナ」に似た主題を含む5つの変奏曲から構成されているのです。短調と長調を彷徨いながら展開する変奏曲の妙はモーツァルトならではです。
最後に第3楽章、ピアノから始まるドミソ好きのモーツァルトの「狩り」のテーマだ。(変ロ=シ♭・レ・ファか)。
この楽章は、8分の6拍子ですが、管楽器が4分の2拍子に、またピアノだけが4分の2拍子になる面白い中間部があります。こんなことを既にこの時代に取り入れているあたりが天才!!
ハイドシェックのカデンツァは、コルトー張りの相変わらずの天衣無縫。(弟子ですから)本当に楽しんでモーツァルトを演奏しているようです。18番もお勧めですね。

2017年3月2日木曜日

ラフマニノフ 徹夜祷_スウェーデン放送合唱団

今日は、お休みを頂いておりましたが、得てしてこんなもので、「風邪」で体が痺れ一日中寝込んでおりました。
やっとこ起き出してラフマニノフ「徹夜祷」を聴こう!
トヌ・カリユステ(指揮)スウェーデン放送合唱団。
「徹夜祷」もドイツ・レクイエムほどではないが、いつもまにかCDが増え続けているが、今日は、「スウェーデン放送合唱団」で。
ハーモニー、音の厚み、音楽の構成力などはやはり卓越したものがある。ベースはさすがにロシア人には敵わないが。